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セレンディピティ [その他]

最近よく聞くことばです。
映画や、お店の名前にも使われていますから、耳にされた方も多いでしょう。

辞書によれば「思わぬ発見をする才能。思いがけないものの発見。運良く発見したもの」(研究社:リーダーズ英和辞典)とあります。

偶然のできごとから思わぬラッキーな結果が得られることや、その才能と言うような意味です。

たとえばちょっとしたこと、間違いや失敗と思ったことがノーベル賞受賞までつながってしまう・・・というように、特に科学分野での発見などによく見られるようです。

セレンディピティは一種の才能かもしれませんが、能力を発揮するには、ボーっと待っているだけではだめではないでしょうか。
豊富な経験をもち、感覚を鋭敏にし、今起こっていることに意味を見出そうとしなければ、
偶然のできごともただの失敗に終わってしまうかもしれません。
何か起こっても気づかないで通り過ぎてしまったり、ただの失敗と思って捨ててしまったりでは、せっかく近づいてきた幸運もつかまえ損なってしまいます。

目標を明確にして、常にアンテナを張り巡らせ、考え方を柔軟にし、失敗を失敗とせずに活かしていく・・・そこからセレンディピティとの出会いは始まるのでしょう。

今日、素敵なセレンディピティと出会えますように!

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極上のひととき [その他]

同じ時間なのに、極上のひとときというものは、あっという間に経ってしまいます。

素敵な会話と食事を楽しみながら、大切な人と過ごすひととき・・・
感動を与えてくれる、素晴らしい映画や舞台を観ているひととき・・・
最高の芸術作品をじっくりと鑑賞するひととき・・・
何かに没頭して時間が経つのを忘れているとき・・・

気がつくとあっというまに2時間や3時間が経っています。

それに引き換え、退屈な会議、つまらない授業・・・時計をみるとまだ5分と経っていなくてがっかり・・・。

こんな経験は誰にでもあるでしょう。

見方を変えれば、充実した濃密な時間だからこそ、流れるのが早く感じられるのではないでしょうか。
寝る間も惜しいほど、時の経つのを忘れるほど何かに夢中になれるのは、とても幸せなことです。

時間というものは本当に不思議で、誰にでも平等に与えられているはずなのに、その使い方次第で長くも短くもなってしまうのです。

あっという間に過ぎて、もっとほしい、終わらないでほしいと思うか、なかなか過ぎなくて早く終わってほしいと思うか・・・。
もっとほしい、終わらないでほしいと思う人から見たら、早く終わってほしい、なんてもったいない話で、できれば分けてほしいくらいです。

ミヒャエル・エンデの名作 『モモ』 には時間泥棒が出てきますが、早く終わってほしい・・・などと思っていると、時間泥棒に盗られてしまうかもしれません。

退屈な会議も、つまらない授業も、嫌だいやだと思っていると、時間が経つのは遅いまま。
どうせ過ごさなければならない時間なら、少しでも気持ちを切り替えて、なにか良いところ、役に立つところを見つけて、過ぎる時間を早めた方がいいとおもいませんか?

先日こんな話も聞きました。

お金や食事を人に与えたら、それは返してもらえるかもしれない。
でも、人に与えた時間は絶対に返ってこない。
一緒に過ごしたり、話を聴いてあげるために時間を使うということは、絶対に取り戻すことのできない、いのちを与えるのと同じこと。
誰かのために時間を使うのは、それほどに大きな、大切なこと。

もしも誰かとともにひとときを過ごし、それがもっとほしいと思うほどにあっという間の充実したひとときであったら、そしてお互いにそう思えていたら、それほど幸せなことはないでしょう・・・なにしろいのちのやり取りにも匹敵するのですから。

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自分を愛するように・・・ [その他]

このところのソネブロの重さ、繋がりにくさにうんざりして、しばらく更新をサボっておりました。
夕べも書きおわって保存しようとしたらエラー・・・でも朝になってよく考えたらもう少し変えたほうが良いように思えたので、アップできなかったことは良しとしました。

さて、今日は少し違う視点から・・・。

私は実は(というほどのことではありませんが)、カトリックのクリスチャンです。
クリスチャンというと、清く正しく、禁欲的で、献身的で・・・というイメージがあるかもしれませんが、決してそんなことはありません(少なくとも私は・・・です。もちろんそういう敬虔な人も多いのも事実です)。
イタリア、スペイン、ブラジル・・・などラテン系の国々がカトリック、といえばなんとなくイメージできるでしょうか?
いのちを与えられていることに感謝し、生きることを喜び、楽しむ、というところがあると思います。

そんなことから、教会で司祭の話を聞く機会も多いのですが、昨日の話がとてもよかったのでそれに関連して・・・。

聖書には、クリスチャンでなくてもどこかで耳にしたことのある有名な言葉がたくさんあります。

昨日の話に出たのは「自分を愛するように他の人も愛せよ」という言葉です。
自分と同じように他の人も愛する・・・つまり自分を愛せなければ他の人も愛せない、ということになります。

ここで言っているのは、うぬぼれや自己チューや極端な自己愛などのことではなく、自分を認め、受け容れる、という意味です。
他人と比較してあれができない、これができないと嘆いたり、劣っていると卑下したり、こんな自分が嫌だ、と自己否定したり・・・つい陥ってしまうことです。
でも、そんな囚われから解放されて、ありのままの自分を認め、受け容れ、好きになってこそ、初めて他の人のことも思いやり、愛することができるのでしょう。

私はカウンセリングや心理療法なども学んでいますが、その中で自己受容ということを学んだとき、これらのことが宗教の壁を超えて、パズルのピースがピシリとはまるように、私の心におさまりました。

そして、「汝の隣人を愛せよ」という言葉もよく聞きますが、隣人の中でも最も身近なのが、パートナー、子ども、親や兄弟、など家族です。
一番身近な家族を本当に愛するためにも、まず自分を受け容れ、好きになることが必要なんですね。

私自身もいつも自己受容ができるわけではなく、自己嫌悪に陥ることもたびたび、自己否定することもあります。
でもそんなところも含めて自分を好きになれれば、周りの人へも余裕をもって接し、受け容れることができるのは実感します。

家族とのあり方も、あらためて考えさせられた一日でした。

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