学而時習之、不亦説乎(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや) [身辺雑記]
子曰、学而時習之、不亦説乎。
有朋自遠方来、不亦楽乎。
人不知而不慍、不亦君子乎。
子曰く、「学びて時にこれを習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)あり遠方より来る、亦楽しからずや。
人知らずしていきどおらず、亦君子ならずや」
有名な孔子の教え、論語の一説です。
昨日、練習後の反省会で言われました。
これまで何度も同じことを言われているはずなのに、身についていない・・・それがある時ストンと納まる、腑に落ちる時があります。
そんなことを話していて、上記の一説を言われました。
どんなことでも、学ぶことには終わりがありません。
これで極めた、ということはない・・・学べば学ぶほどに新しいことがあり、気づきがある・・・そして理解が深まることがまた愉しい。
人様のお話を聴くための学びもそうだし、武術もそう。
そして、そこからまた新たな世界が広がる。
かつて、そして今も、私は人付き合いに苦手な部分があります。
「私はこれまで人間関係で人との距離感がうまく掴めない人だった・・・」
という話をした時師匠が、「今何て言った? ・・・人だった・・・と言ったでしょ? 貴女は今、変わりつつあるんだよ」と言いました。
自分の気持ちを表現することが苦手で、甘えベタで、人にどこまで近づいたら良いのかわからず、深入りしないように逃げていた自分・・・(《距離・ディスタンス》http://michaela.blog.so-net.ne.jp/2011-07-19)。
武術で仲間と手を合わせ、ヘンな気遣い無用の率直な付き合いを続けているうちに、少しずつでも変われているのでしょう。
クンフーはコミュニケーション・・・手を合わせ、勝ちたい、相手を打とう、負かそう、というのではなく、触れた手から、あなたは誰?何をしたいの?どうしたいの?そう来るのね、じゃぁ私はこう・・・というやり取りをするのがクンフー。
コミュニケーションツールとして最高だ!というのが私の師匠の持論です。
そして、ある手の出し方は、相手に向けているようだけど実は自分を知るためでもある、自分に問う手でもある・・・。
クンフーはコミュニケーション、そしてカウンセリング。
坐禅を教えてくださっている僧侶が、心を調えるためには身体を調えること・・・だから坐禅、ということを話されました。
いきなり心を調えようとしても難しいが、身体を調える方がやりやすい・・・そうです。
ちなみに武術には「立禅」というのがあります。
カウンセリングの学びで頭の中でこねくり回していてもほどけなかったもつれた糸が、クンフーを習うようになってほどける糸口が見つかったような気がする時があります。
完全に見えたわけではない、時々チラリと見えたような気がする・・・それをしっかり捉まえたいと思います。
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読んでいて「推手」って言う映画を思い出しました・・・久しぶりに観てみたいと思います。
by 拳客 (2015-02-02 19:11)
拳客さん、「推手」調べてみました・・・面白そうな映画ですね!私も観たくなりました。探してみます。
by michaela (2015-02-02 23:55)
お早うございます。記事内容とは関係なさそうですが、ユリカモメが大きく撮影されてて羨ましいです〜^^;
by doudesyo (2015-02-03 07:18)
doudesyoさん、おはようございます。
そうなんです、記事とは関係ないんですが(笑)
近所の川です。私は不忍池のホオジロガモ、うらやましいです(笑)・・・場所的、環境的に珍しいですよね!
by michaela (2015-02-05 08:56)