揺らぐ・・・ [身辺雑記]
こう見えて(?)私は15年ほど前に、カトリックの洗礼を受けている。
おまけに、週2回ほど、所属教会の受付で、電話番その他事務仕事の手伝いをしている。
しか~し!もとからさほど敬虔とは言えなかったのだが、ここに至って自他ともに認める(?)不良クリスチャンとなり果てている。
昨年初めからミサの時間が変わったので、ほとんど与れなくなったということもある。
それ以上に、ハスキーきなこの散歩、武術練習、と、我が家に近い(というより本当は隣)お寺に行くことの方が多くなったということがある。
お寺の敷地は、我が家の敷地の隣だが、何しろ広いので本堂にたどり着くまでは10分近くかかる。
本堂の辺りまでは犬は連れて行かれないものの、毎日のように参道を通り、武術の稽古をし、顔を覚えられて若いイケメンの修行僧にも、おはようございます、こんにちは!と明るく挨拶されれば親しみもわいてくる。
それに引き換え教会は・・・いや、言わぬが花。
信仰生活には「躓く」という言葉がある。
何らかの理由で信仰を捨てる、あるいは捨てるところまで行かなくとも、捨てたも同然になること・・・その理由は人間関係であることも多い。
教会というところは、一種の村社会である。
いろいろな人がいる・・・よく、カトリックなどキリスト教を信仰している人、というと清く正しく、間違ったことはしないし、まさに聖人のように思われがちだが、ま~ったくそんなことはない。
むしろ一般社会以上にいろんな人がいる、と言っても過言ではないかもしれない・・・だからこそ救いを求め、信仰を求めて教会に行くとも言える。
私は別に人間関係に悩んでいるわけではないが、いろいろな意味で(ここにはかかないけれど)、躓きかかっていることは事実かもしれない。
そもそも私がカトリックの洗礼を受けたきっかけは・・・
幼稚園、小中高とカトリックの学校だったので、なんとなくなじみがあったこと。
隣がお寺なのに、法事の時くらいしか仏教に接することがなかったので、知らなかったこと。
あるきっかけがあり、たまたま洗礼を受けるための勉強に後押しされたこと。
単純と言えば単純、神との劇的な出会いもなければ、岩をも動かす深い信仰があったわけでもない。
書店でふと手にした本・・・隣のお寺の僧侶が書いた本・・・をパラパラと読んでいたら、世の中には偶然はない、すべては必然、どのような人と出会うもすべてご縁。
すなわち無駄な出来事も出会いもない・・・。
キリスト教でも仏教でも、同じように良いことを言っている・・・。
人が幸せになるためのものが宗教(と、私は思っている)・・・ならば、道が違うだけで行きつくところは同じなのではないか?と思う今日この頃である。
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この頃になって信仰について考えるようになりました。
わたしも幸せのための宗教であり信仰だと思っています。
“無駄な出来事も出会いもない・・”
そうあってほしいと願います。
by はなぶく宇宙人 (2014-01-26 21:47)
子どものころ教会に通ったりしましたが、いまは教会とは無縁。むしろ寺を観ながらの日々が多いです。
by cocoa051 (2014-01-27 07:40)
はなぷく宇宙人さま、世の中には、なんでこんなことが!?神も仏もない、と思うような出来事がたくさんあります・・・それが無駄ではない、と言われても、正直やはりなぜ!?と思ってしまうのが人間でしょうね。
それを考えに考え抜くこと、その出来事から何かが変わっていくこと・・・それも無駄でなかったということかもしれません。
by michaela (2014-01-27 08:28)
cocoa051さん、日本人の宗教観(ある意味何でもありの)から見ると、「洗礼」というある意味「契約」を交わすキリスト教はなじみにくいのかもしれませんね。
通りすがりにフラッと立ち寄れて、建物の中に入らなくとも外から手を合わせれられるお寺や神社は、日本人に合っているのかもしれません。
子どもの頃教会に行っていた、という方が結構いらっしゃいますが、子どもの頃で終わってしまうのは、教会は通い続けるところ、一度足が遠のくと敷居が高くなってしまう、という感覚があるのかもしれません。
by michaela (2014-01-27 08:33)