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孤独感について [その他]

気がつけばずいぶん更新していませんでした。

2つほどのことが重なって忙殺され、パソコンに向かうのはメールチェックと、必要な作業の時だけになっていました。

さて、いまだに残暑(?)が厳しかった今日、友人と語り合いました。

その中で出たのが「孤独感について・・・」。

人は誰でも多かれ少なかれ、孤独感を抱いて生きています。
家族がいても、永久に一緒にいられるわけではない・・・子どもは独立し、親兄弟やパートナーとは死別することもある・・・。

家族や友人の中にあっても、孤独感を持つこともある。

だからこそ人は人との繋がりを求め、関わろうとする・・・。

でも、それが孤独感を癒すために繋がりを求めるのでは、依存になってしまうのではないか・・・。

人は孤独感を抱いているということを、まず受け容れる必要がある・・・。

孤独感を受け容れて、そこから始まる繋がりが大切・・・。

こんな話ができる友人を持ったことに感謝した1日でした。

そして・・・このこととは別ですが、あることに関して長年の課題をクリアし、次のステップに進むことができました。
これは大きな前進です。
さらに、ひとつのことを成し遂げたという大きな達成感と、自信に繋がりました。

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小さきもの・・・ [その他]

私の周りには素晴らしい感性や才能、特性を持った友人、先輩、師がいます。

その人たちと接していると、自分がいかに小さいか、つくづく感じさせられます。

うらやましいと思うこともあります。
けれどもそこにひがみや嫉妬、自己否定や屈辱感はありません。

ただただ自分の小ささを感じる・・・。
謙遜するのとも違う・・・。

自分より優れたものを持っている人と何かを共有できる、清々しさでしょうか・・・。

そんなことを最近思っていたら、今日のミサでは「へりくだる」ことが話されました。

相手への尊敬がないと、真にへりくだることはできない・・・。

だから、慇懃に丁寧な態度をとられてもなんだか気分が悪かったり、相手はとても謙遜して話しているのにそうは感じられなかったり・・・それらは偽りの謙遜なんでしょう。

形だけの謙遜にならないようにしたい、常に真の謙虚さと、相手へのリスペクトを持ち続けたいものです。

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魂の渇望 [その他]

人は何のために生きているのか、自分は何のために生まれてきたのか・・・。
ふとそんなことを考えるときはありませんか?

仕事は順調、お腹はちょっと出てきたけれどまずまず健康、子どもたちも良く育って問題はない、パートナーとも仲良くやっている・・・。
女性なら、時々友人とランチに出かけ、お芝居やショッピングを楽しみ、時間を忘れておしゃべりに興じる・・・これといって不満も大きな心配もない、ごく当たり前に過ぎていく毎日。

でも、ふとした折に、頭をもたげる「このままでいいのだろうか・・・」「私はなんのために生きているのだろう・・・」。
そのうち日々の忙しさにまぎれて忘れてしまうけれど、泡が浮かび上がってくるようにまたぽかりと浮かんでくるこの想い・・・。

もしかしたら、生き甲斐を求める、魂の渇望かもしれません。

人には、神や、それに似た概念の、超越した何かにふれたいという欲求があります。
昨今の「スピリチュアル・ブーム」の根底にあるものも、もしかしたらこれかもしれません。
特定の宗教を信仰するということではなくても、人として、生きる道を探りたくなったり、生き甲斐・・・それも精神的な生き甲斐・・・を求めたり・・・。

肉体的にも、精神的にも、これといった問題はなく、不安や不満とまでは行かないけれど、なんとなく満たされない想い・・・。
こんな想いが浮かんできたら、ちょっと魂の声に耳をすませてみませんか?

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そぎ落とす [その他]

このブログを始めた時、確か、不要なものは持たずシンプルに生きたい、と書いたような気がします・・・(「~ような気がする」というくらいだから、それが実践できているかどうかは・・・)。

物質的なことももちろんそうですが、シンプルに生き、本質を生きるためには、生活や仕事などの面でも不要なものをそぎ落とす必要があります。

若い頃は、今と全く違う仕事をしていました。
人と関わることがあまり好きではなく、自然と接して仕事をしたかったので、環境アセスメントに関わることをしていました。
これからダムや発電所を作ろうという計画があるところに行って、事前の動物調査をすることが私の仕事でした。
朝早くから野鳥を調べたり、ネズミ捕りを仕掛けたり、捕虫網を振り回したり・・・。
自然の中で走り回った後は、東京に戻って深夜まで、時には徹夜で報告書書きという生活でした。

そんな生活をしていた頃は、自分がセラピーに関わることをするようになるとは考えてもいませんでした。
でも、今思うと、こうして自然の中にいた数年間で私の根本にある何かが癒されていたのかもしれません。

やがて会社を辞めた後は、家ででき、年取ってからも一生できるような仕事はないか、と思い、翻訳の勉強をしたこともあります。
しかしこれも、勉強だけでなく、自分を売り込む積極さがないとモノにはならないんですね。

それでもこの技術を活かして、数年後には口コミで下訳や図鑑の解説文みたいなこともやりました。

10年ほど前、いわゆる「自分探し」(この言葉、私はあまり好きではありませんが、これを使ったほうがわかっていただけ易いこともあるので仕方なく使います)からカウンセリングやセラピーの勉強と出会い、人生の方向が定まってきました。

それでも数年前までは、元の仕事に関わるような鳥や図鑑や翻訳などの話があると、関わっていました。
必要とされて声をかけられることが嬉しかったり、これを断ってしまうと繋がりが切れてしまい、ニ度と声をかけてもらえないのではないかという不安があったり、それで引き受けていたような気がします。

しかし、ここ2年ほどの間に、それを断ることができるようになってきました。

今の自分が本当にやりたいことは何か、本当に必要なことは何か。
それが見えてきたとき、ほかの事に割く時間が惜しい、もったいないと感じるようになってきました。
人生が折り返し点を越えたせいもあるかもしれません。

今は迷うことなく、必要なことだけを選び取れるような気がします(時には迷いますが・・・)。

そしてシンプルに残っているのが、このブログのサイドバーに紹介している NPO http://www.npocull.org/ の活動です。

本質的なもの、本当に必要なものを活かすためには、時にはそぎ落としてゆくことも大切です。

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平和の風船 [その他]

昨日の朝日新聞(夕刊)に、ちょっと良い記事が出ていました。

東京都内の広告会社員らが立ち上げた【PEACE HIROSHIMA】というサイトの記事です。

http://www.peacehiroshima.com/

その中に【バルーン・ワールド】というページがあり、BBSから書き込むとメッセージ入りの風船になって、画面の広島の原爆ドームから大空に放たれる・・・という仕組みです。

その日に書き込まれたメッセージが風船となって浮かんでいますが、その数は日によって20個以上の時もあれば、0の時もあるとか・・・。
メッセージは、世界中の人に見てもらえるようにと、英語でしか書き込めませんが、【PEACE】でも【LOVE】でも【No War!】でも一言でいいと思います。

ひとつでも多くの風船を飛ばしてみたいと思いませんか?
私も書き込んで見ました(ちなみに今日、16個目でした)。

日本の8月は、祈りの月のような気がします。

8月6日の広島原爆投下、続いて9日の長崎原爆投下、そして15日の終戦。
カトリックでは8月15日は「被昇天の聖母」の日です。
聖母に捧げる祈りは、そのまま戦没者のため、平和のための祈りのような気がします。
そして日本の旧暦のお盆・・・。

平和への願いというものは、自分の子ども、兄弟、恋人、友が戦地に赴くとなったらどんな気持ちがするか・・・そんなシンプルな想像力から生まれるような気がします。
愛するものを失いたくない・・・そんな基本的な気持ちを一人ひとりが大切にするところから平和は生まれるのではないでしょうか。

為政者が想像力をはたらかせることができないと・・・あるいは間違ったはたらかせ方だと・・・。

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信州・無言館へ・・・ [その他]

上越自動車道の上田菅平で降りておよそ30分走ると、小高い丘の上に、その十字架のような建物があります。

戦没画学生の絵を展示した美術館、【無言館】です。

         

何も知らずに入れば、ちょっと変わった作りの小さな美術館です。

         

しかし、血に染まった軍服も、銃痕のあるヘルメットも、熱で溶けた食器も、焼け野原や死屍累々の写真もないのに、これほど戦争の惨さを伝えているところもないでしょう。

10年前に開館した頃からいつか行きたい、行かなければ、と思っていました。
上から見ると十字架の形の建物は、入り口も教会のような造りでした。
入った瞬間からなぜか涙がこみ上げてきました…。

「あと2分でも2秒でも絵筆を握っていたい。帰ってきたら必ず完成させるから」、と恋人をモデルにした裸婦像を未完のまま出征して帰らなかった若者。
「いつか召集令状がきたらもう描けないから」と、祖母の肖像画を描きなから語り、モデルになっていた祖母は何も語らず一筋の涙だけがあったというエピソード。

十字架の内部、打ちっぱなしのコンクリートに飾られた数々の絵は、すべてこのような背景を持ちながら戦争に行って帰らなかった画学生の作品です。

生きていれば素晴らしい作品をたくさん残してくれたかもしれません。
夢も、希望も、未来も、愛する者との絆も、すべて断たれて若くして散った彼らの作品を是非見ていただきたいと思います。

見終わって外にでると、梅雨の合間の太陽がまぶしく、草の匂いと、ギーギーというセミの声がいのちを感じさせました。

建物の前には「記憶のパレット」と題された大きな黒御影石のパレット型の碑があり、名前とともにこう記されていました。

   「私たちの芸術と
    私たちの銃の前にあった
    すべての芸術のために」    

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釈然としないこと [その他]

今朝の情報番組で、8年前の少年による母子殺人事件のことをやっていました。

死刑判決に対して控訴審で無期懲役になったものを、最高裁がやり直しを命じたといいます。

当時少年だった被告に、20人からの弁護団がついているという・・・。
少年の精神年齢は12才くらいだった、ままごとのような気持ちだった、殺した女性に母親を感じて甘えようとして誤って殺してしまった・・・弁護士の話です。

真実はわかりません。
でも画面で切々と語る原告男性を見ていると涙が出そうになりました。
妻と幼い娘を残酷に殺され、辱めを受け・・・。

大弁護団の中心である当の弁護士は死刑反対の旗頭だそうです。
原告男性の言葉によれば、被告の弁護というより死刑反対のためにやっているとしか思えない、被告すら利用されているように思う・・・。

私はカトリックの信徒です。
赦しの大切さもわかっています。
「復讐するは我にあり」という言葉の意味もわかっています。

被告にも守るべき権利があり、そのために働く弁護士という仕事の難しさもわかります。
でも、日本の法律は被告を護りすぎるような気がします。
被害者や家族は事件の被害と、自分より被告の方が守られているような法律システムの、両方に傷つけられるように思います。

事件当時の男性の言葉・・・「今すぐ少年を釈放して、私の近くに連れてきてほしい。私がこの手で殺す」
とても共感しました。

人が人の命を奪う・・・ゆるされない行為ですし、その意味で死刑もそうなのかもしれません。
人が人を裁くことの難しさ。

心から死刑反対、とは言えない自分があります。

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自分に自信をもつ [その他]

自分に自信がある人って、どのくらいいるのでしょう?

一見自信に満ち溢れて見える人でも、実はどこかに不安を抱えていたり、コンプレックスを隠すあまりに自信満々な態度をとっていたり、ということも多いのではないでしょうか。

コンプレックスの裏返しで、逆に強がった態度をとることはとてもありがちです。

さて、ある人、Aさんと話していたとき、その人が、自分は根本的に人を信用していないかもしれない、自分しか信じていない、と言いました。
その人はとても自信がありそうに見え、友人からも、お前のその自信はどこから来るんだ?と言われるほどです。
かといって横柄ではなく、その自信はコンプレックスの裏返しとは思えません。

思い当たったのは「自分しか信じていない」という言葉です。
「自分しか信じていない」というとあまり聞こえが良くありませんが、自分が信じられるということは、自分を良しとしていること、つまり自尊感情(セルフ・エスティーム)がしっかりあるということだと思います。
その人は、他人を信用していないと言うわりには、他者へのリスペクト(敬意)が感じられます。

自尊感情がきちんとしているからこそ自分が信じられ、自信に繋がり、他者へのリスペクトができるのではないでしょうか。
「信用していない」という言葉は、もしかすると「依存していない」という意味かもしれません。

逆に別なある人、Bさんは、同じく自信に満ち溢れて見えるのですが、どこかにコンプレックスを抱えています。
根本で他人を信用していないところは同じなのですが、人当たりの良い態度と裏腹に根本で他者へのリスペクトがありません。
どこかで、上から見ているような物言い、見方を感じます。
自信がありそうでいて、依存心が見えます。

同じように自信がありそうに見えるAさんとBさんですが、いろいろ違いはありそうです。

I am OK. You are OK.      自分も他者もOK。 おそらくAさんの根本はこれでしょう。

I am OK. You are not OK.    私はOKだけど、あなたはだめ。Bさんはこれに近いかもしれません。

I am not OK. You are OK.    あなたはOKだけど私はだめな人間・・・。自分に自信がもてない人です。

I am not OK. You are not OK. あなたも私もだめ。人間否定の危険なタイプです。

これは交流分析で使う人間観ですが、「I am OK. You are OK.」がもっとも良い人間関係です。

私の場合は、かつては全く自分に自信などありませんでしたが、年齢を重ねたせいか、自分を良しとできるようになると共に自信もだいぶついてきました。
しかし、私も根本で人に対する信頼に欠けるようで、そのあたりが以前にも書いた人との距離感(特に心理的なパーソナルスペース)の問題に繋がっていると思います。

まだまだ成熟の余地のある人生です。

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うるさいっ! [その他]

街にはなぜあんなに人工的な音が溢れているのでしょう。
もちろん、目が見えない方のために、音による情報が必要なことは当然です。

が、しかし、それ以上に、無神経な音や不要な音が多すぎるように思います。

駅に立てば、ホームで電車の到着を知らせるアナウンスが機械的に流されるため、上りも下りも一緒になってしまい、そこにかぶせるように駅員さんの肉声の放送まで流れる。

電車に乗れば携帯電話のマナーや座席のマナーを呼びかける放送が流れ、肝心の情報・・・例えば今乗っているのは快速なのか普通なのか(急いで乗ると確認していないこともあります)、次に止まるのはどこの駅か・・・などは放送されずイライラ・・・。

再びホームに立てば今度は癒しのつもりか、山にいるような小鳥の声が流れている・・・。
でもそれは自然の中で聞くのとは全く違って、同じさえずりをいつまでもいつまでもいつまでも繰り返している・・・。
そして発車のメロディーと案内放送と小鳥の声がゴチャゴチャになって流れ・・・。

スーパーに入れば新製品のデモテープが、音質の悪い小さなスピーカーからシャカシャカと流れ、足元では安売りをがなりたてるエンドレスのテープがプレーヤーから流れ・・・。
(私は商品を探すのにあまりにもうるさいのでスイッチを切ったこともあります・・・静寂が心地よかったこと!)

銀行のATMでは一瞬手を止めていると、「案内に従って操作してください」と急かされます。
「うるさい!わかっとるわい!」と言い返したくなります。

冷蔵庫の扉をちょっと長く開けていると「ピーッ、ピーッ!」と鳴り・・・。

一日中機械の声や音に追い立てられているような気がします。

よく考えると、不快になる音には、人工的に作られてひたすら繰り返される音が多いように思います。
相手の状況も考えずに一方的に押し付けられてくる音。
質問の余地も、分け入るスキも与えません。

つまりはコミュニケーションが成立していないわけです。
情報の発信者がコミュニケーションをとろうとせず、機械に任せているように思います。
もし機械的に流される情報がなかったら・・・分からないことを近くの人や係員に訪ねればいいのではないでしょうか?

目が見えない人のため、と音の情報を多くするなら、タッチパネルの不便さは考えられているのでしょうか?

山で耳にすれば爽やかで心地よいはずの鳥の声までが苛立ちの元になるのは、私がおかしいのでしょうか・・・?

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個性って・・・? [その他]

出かけていく娘の後姿に、近所の人の言葉を思い出しました。
娘が美容系の勉強をしていると言ったら・・・

「あぁ、それでいつも個性的な格好をしていらっしゃるのね!」

誉め言葉ととったものか、そうでない方ととったものか・・・。

辞書にはこうありました。

個性・・・
【個々の人や事物がおのずからもつ、他と区別される特性。パーソナリティー。】(集英社 国語辞典)

個性的・・・
【その人や物が、他と区別される特性をもっているさま。独特であるさま。】(集英社 国語辞典)

良いでも悪いでもなく、人と違っていたり、人と区別される独自性のようです。
一時期、「障害は個性」ということもよく言われました。

個性的、という言葉を良い意味にとるか、あまり良くない意味にとるかは、この言葉を発する人、受け取る人の考え方次第かもしれません。

若い頃の私は、自分が個性のない人間だと思っていました。
とりたてて目立つところもなく、アピールするようなものも持ち合わせていない、多少勉強はできたものの、それがなければ何十年後かのクラス会では先生から名前を忘れられている・・・そんな人間だと思っていました。
そしてそれはちょっと寂しいことかな・・・?とも思っていました。

さて今は・・・?
自分ではよくわかりません。
もしかしたら個性というのは周りから評価されるものかもしれません。
そして
「あなたって個性的ね」
と言われたとき、それをどう受け取るか・・・。

自己評価が高ければ、個性的という言葉も良い意味に受け取れるかもしれません。

また、自分が「あの人は個性的だなぁ」と思ったとき、その人のことをどう思ってその言葉を発しているでしょうか?

独自性という意味から言えば、個性のない人などいません。
一人ひとり、みな違う個性を持っています。

そして・・・それはみな、良いもののはずです・・・。

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私たちに何ができるのか? [その他]

今日はバレンタインデーです。
世の中はチョコを贈るとか、贈らないとか、義理チョコだとかと盛り上がっていますが、その対極にあるようなお話を紹介します。

私のお友達のお嬢さんは今、南米のコロンビアのNGOで働いています。
娘さんを遠い海外に出しているお母さんの気持ちは、同じく子ども(私の場合は息子ですが)が海外で暮らす身としては痛いほどわかります。
それ以上に、娘さんの日々の体験をしっかりと受けとめている姿勢には感動します。

コロンビアでの娘さんの体験がブログに綴られていますので紹介します。
日本でぬくぬくと暮らしていると見えないことを、娘さんは痛みと共に日々感じ取り、成長の糧にしているように思います。

貧しさとは?豊かさとは?
日本は本当に豊かなのか?
私たちには何ができるのか?
ぜひお読みください。

http://ameblo.jp/kiki82/entry-10025358776.html

この話のその後として、別なところに娘さんのコメントが載っていますので、引用します。

「今回の事を通して、私は一つ学んだ事がありました。
人が貧困に陥ったとき、本当に必要な物はパンではなく、隣にいてくれる大切な人なんだと。

始め、ジュデイー(彼女の彼女)が私に嫉妬しているという話をきいた時、正直笑い事だと思っていました。
私はレズビアンではない上に、外国人で、それも彼女をメイドとして雇っている家に住まわせてもらっているだけの私。
彼女(ジュデイー)から、自分が働くので、アデイエラを退職させると聞いたときは、こんな心の狭い彼女でいいのかと思いました。
彼女の仕事はメイドでも、今までよりも、ずっといい待遇の職種で働いており、それを嫉妬、それも幼稚な嫉妬で辞めさせようとするとは。
私だったら、彼氏が自分のやりたい事を尊重せずに自分の近くにいろと言われると、何て心の狭い人なんだろう。と思ってしまったと思います。

けれども、こう私が思えるのは、食べるパンがあり、そのパンを買うお金を作る為の仕事もあり、そして、離れていても自分を見守ってくれている人がいる事で、自分がやりたいことだけを考え、生きる事が出来るのだと。
けれど彼女にとっては、仕事は家族を守る為のものであり、その家族の誰かが不快な思いをし、傷つけてまで仕事をする価値はないのでしょう。

たとえそれで物が食べられなくなったとしても。

私は、この情況に対して、それほど悲観的になってはいません。悩んでもいません。むしろ良かったと思います。

私が思うに、本当の貧困は、自分に選択の権利が無い事だと思います。
どれだけお金を持っていても、自分が好きな人と一緒にいる時間がない。
やりたい事ができない。
お金がなくても、自分と一緒にいたい人といる事を自ら選んだというのは、無理に働かされるよりも、幸せな事だと思います。
勿論、お金があれば、食べたいものをより沢山食べる事が出来、いきたい所に沢山行く事ができ、自分の選択の幅が広がります。
しかし今回、彼女が選択した行いは自らの意志で決定し、自分で下した判断なので、私は尊重しています。
彼女は人がいいし、料理も上手なので、必要となれば仕事も見つかると思います。
長々とかいてすみません。それも生意気に。
今回の経験は本当に良い経験です。
この経験の切っ掛けを下さった、そして何時も見守ってくれている両親に感謝しています。 」

単に同情や感傷に陥ることなく、さまざまなことを考えている彼女の活躍を祈ります。
そして彼女が関わる人たち、アディエラやジュディーや子ども達のためにも祈ります。

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金縛り・・・ [その他]

金縛りって、なったことありますか?

先日珍しく一日中家にいた日のこと。
昼ご飯を食べて一休み、本を読んでいたら耐え難い眠気に襲われウトウト、ちょっと横になって一眠りすることにしました。
小一時間も経ったでしょうか、玄関が開いたような音と、誰か入ってくるような音と気配で目が覚めました(ような気がしました)。
娘たちのどちらかが帰ってきたか、早いな、と思い、「お帰り」と言おうとしますが声が出せず、体も起こせません。

足音というか気配というか、だんだん近づいていてきます。
誰だろう?と、頭をそちらに向けようとしても動かせません。
声も出せず、動くこともできず、目も開いて見えているのか、そうではないのか…。

うめいているような、もがいているような、なんともいえない状態がしばらく続いてからもう一度ウトウトし、今度はしっかり目が覚めました。
あぁ、あれは金縛りだったのか…。

実は3度目です。最初はもう20年以上前、長女がお腹にいたときどうしようもない眠気に襲われて、物心ついて初めてくらいの昼寝をしたとき。
このとき後からあれが金縛りというものかもしれない、と思いました。
2度目は数年前、やはり耐え難い眠気で昼寝をしたとき。
このとき初めて人の気配を感じました。
そして今回。

音や人の気配。考えようによっては心霊現象ととらえてしまうかもしれません。
私は視覚的には朦朧としていましたが、何か見えることがあってもおかしくない雰囲気でした。
恐怖はさほど感じませんでしたが・・・。

夜、帰宅した次女に話したら、「あぁ、あれ気持ち悪いよね、だから昼寝ってしないんだ」と、あっさり言われてしまいました。
経験者だったんですね…。

Wikipedia によれば、「金縛り」とは・・・

【レム睡眠中に於いて、人が上に乗っているように感じ、体が締め付けられるような感覚を覚える現象をいう。医学的には睡眠麻痺と呼ばれる。夢よりも意識が明瞭であり、人が自分の部屋に入っているのを見たり、耳元で囁かれたり、体を触られているように感じることもあり、これは現実のことで、現れたのは幽霊ではないかと、多大な恐怖を覚える人も多いが、夢を見ているのと同じことであり、いわゆる心霊現象ではない。金縛りには、大きく分けて、閉眼型と、開眼型の二種類が存在する。ほぼ全てが前者のもので、実際には閉眼しているにもかかわらず、金縛りがかかる直前の室内の風景や、普段の室内の記憶が鮮明な夢となって映し出される。しかし、本人が閉眼型だと認知していない場合がほとんどである。閉眼型の特徴として、霊などの幻覚が見えたりし、恐怖感を強く感じる場合が多いことが挙げられる。】  だそうです。

要するに、脳は覚醒しているが身体は眠っており、脳の指令が筋肉に上手く伝わらないから身体が動かせない・・・ということのようです。

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「知る」ことから・・・ [その他]

日本にいると気づかずに、というか知らずに過ごしてしまうことがたくさんあります。
テレビや新聞の報道はありますが一方的なものや余計なものが多かったり、インターネットのニュースも自分で選択するとついつい興味のあることだけになってしまいがちだったり。
知ることにはどうしても限界があります。

でも、知っておくべきことが世界にはたくさんあるように思います。
狭い島国の日本にいるからこそ、視野を広くする必要があるでしょう。

(物質的に)豊かな日本では想像もつかないような悲惨な状況下に多くの人たちが置かれています。
知ったからといって何かできるとは限りませんが、もし少しでも意識が変われば、第一歩ではないでしょうか。

こんな記事を目にしました。
これが発表されたのは2007年1月11日、1ヶ月以上知らずに過ごしていました。

「国境なき医師団」http://www.msf.or.jp/から「2006年、10の最も報じられなかった人道的危機」が発表されたそうです。

  1.中央アフリカ共和国:武力衝突からの逃走
  2.結核:人的犠牲の増加
  3.チェチェン共和国:悲惨な紛争の影響
  4.スリランカ:援助が限定される中、攻撃にさらされる一般市民
  5.栄養失調:治療のための有効な戦略は実施されず
  6.コンゴ民主共和国:極度の貧困と暴力に耐え忍ぶ人びと
  7.ソマリア:戦争と災害に見舞われ、苦境に陥る人びと
  8.コロンビア:恐怖の中に生きる
  9.ハイチ:一触即発の状況にある首都における暴力の蔓延
  10.インド:中部における衝突
       「2006年、10の最も報じられなかった人道的危機」(国境なき医師団)

詳しい内容は「国境なき医師団」のホームページからご覧ください。
最近ではバレンタインデーに義理チョコを贈る代わりに、その分をチャリティーに、という動きもあるようです。
「知る」ことから、「小さくとも何か自分にもできることをする」へ意識が変わると、そしてそれが少しずつでも広がると、世界はもう少し明るい方へ変わるかもしれません。

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子どもは私のものではない・・・ [その他]

赤ん坊を抱いたひとりの女が言った
どうぞ子どもたちの話をしてください
(それで預言者は言った)
あなたがたの子どもたちは、あなたがたのものではない
彼らは生命そのもののあこがれの息子や娘である
彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
あなたがたから生じたものではない・・・

あなたがたは彼らに愛情を与えうるが
あなたがたの考えを与えることはできない
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから
あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが
彼らの魂を宿すことはできない
なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでいるから
あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが
彼らに自分のようにならせようとしてはならない
なぜなら生命はうしろへ退くことはなく
いつまでも昨日のところに
うろうろ ぐずぐず してはいけないのだ
あなたがたは弓のようなもの
その弓からあなたがたの子どもたちは
生きた矢のように射られて前へ放たれる
射る者は永遠の道の上に的をみさだめて
力いっぱいあなたがたの身をしなわせ
その矢が速く遠く飛び行くように力を尽くす
射る者の手によって
身をしなわせられることを喜びなさい
射る者は行く矢を愛するのと同じように
じっとしている弓をも愛しているのだから

カリール・ジブラン 佐久間 彪 訳/『預言者』(至光社) より

子育て中の人に贈られることも多い、有名な詩です。
私も何年か前に教えてもらいました。
すっかり忘れていたのですが、最近ふと目にして思い出しました。

子どもをひとりの人間として見て、決して自分の所有物のようにしてはいけない、ということが強く響いてきます。

愛は与えられても考えを与えることはできない・・・。
私たちは、矢である子どもを未来に放つ弓。

私たちは弓・・・射手ではないのです・・・つまり矢が飛んでいく方向を定めることはできない。

射手に身をゆだね、射手が定めた方向に矢が真っ直ぐ、遠く、気持ちよく飛べるようにしなやかに身をそらす・・・。

「射る者は行く矢を愛するのと同じように
じっとしている弓をも愛しているのだから」

良い弓として使われるよう、しなやかさを保ちたいものです。

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故郷(ふるさと) [その他]

子どもの頃、夏休みなどに友達が「お父さんの田舎に行く」とか「田舎のおばあちゃんのところに行った」などと話すのをちょっとうらやましいような、仲間に入れないような気持ちで聞いていました。

私は生まれも育ちも今住んでいるここ、横浜です(生まれたのは正確には東京の病院ですが・・・)。
両親とも、その親達がいわゆる田舎から出てきてしまっていたので、「帰る」という感覚のところがありませんでした。

ですから「田舎に行く」などという言葉が身近になかったわけです。
しいて言えば、母方の親戚が住んでいた海辺のC市が私にとっては「田舎」の感覚に近かったかもしれません。

母は東京で生まれ、戦争中に横浜に越してきたので気持ちは常に東京に向いているようで、いまだにそうです。
それに対して私は、生まれも育ちも横浜、今住んでいるここが私の根を下ろしているところ、という感覚があります。
でもそれは「故郷」「田舎」とはちょっと違う感覚です。

自分自身が根ざしているつもりのところが、母の口からは「いなか(故郷の意味ではなく、都会ではないという意味の・・・)」とか、「自分が住むべきところはもっと違うところ」のような雰囲気で語られるのは、ちょっと複雑なものがあります。

そんなところが、私が育ってくる中でいろいろなものに対して「懐かしさ」という感覚を希薄にしてきたかもしれません。

よく同世代の人同士で語られる共通の思い出や話題・・・わぁ~懐かしい!という感覚が私には弱いような気がします。
私の中では「懐かしい思い出」というよりは「記録」と言った方がいいかもしれません。

「故郷(ふるさと)」にどのような思いを抱いているか・・・育ってきたこれまでをちょっと振り返ってみると面白いかもしれません。

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