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大和路を歩いて考えた [旅行]

大和路の旅からずいぶん日が経ちました。

記憶のかなたに消えそうになりながら、時々沸き起こるのが、旅の途中思った、日本人の宗教観のこと。

奈良、吉野の旅ですから、神社仏閣ははずせません。

水分(みくまり)神社では、中国のお寺のような、なんともいえない懐かしさを感じました。

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名産の杉でしょうか・・・フクロウが見送ってくれます。

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一行は私を含めてカトリックの信徒が多かったのですが、行く先々で神社の参拝礼にのっとって手を合わせ、頭を垂れ、祈りを捧げました。

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その中に自分も混じりながら考えていたのが、日本人の宗教観。

これは以前にも書いたことがありますが(DNAの中に・・・ http://michaela.blog.so-net.ne.jp/2006-10-26)、よく日本人は宗教を持たない、と言われるけれど、宗教心は持っていると思うのです。

最近の若い人はわかりませんが、私などは小さい頃から「ののさん(仏様)に手を合わせて」と言われたり、台所(かまど)の神様(荒神様)とか、トイレにも神様がいたり(歌とは関係ありません)、いわゆる「八百万の神」が常に身近にありました。

結婚式はキリスト教式でチャペルで挙げ、子どもが生まれれば神社にお宮参り、クリスマスをお祝いしてお盆になるとご先祖様を迎える準備をし、葬式は仏教で・・・。

ある意味「何でもあり」のような宗教観は日本独特のものではないでしょうか?

「何でもあり」というといい加減なように聞こえますが、言い方を変えれば許容範囲が広い、いろいろなものを受け容れ、さらに融合させることもできる柔軟さ・・・これは日本人の長所でもあるように思います。

代々クリスチャンであったり、信仰心の篤いクリスチャンであったりするとまた違うかもしれませんが、たとえキリスト教の洗礼を受けても、こうした日本特有の宗教心はなかなか手放すことができない人も多いのではないでしょうか。

かく言う私もそうです。

カトリックの洗礼は受けても、それまでに身体に沁み込んでいるものはそう簡単に抜けません。

キリスト教信者が日本の人口の1%(カトリック、プロテスタント合わせて)くらいにしかならない、というのは、「神と契約をかわす」という感覚が日本人の体質に合わないからのような気がします。

もちろん神社には「氏子」、お寺には「檀家」というものがありますし、熱心な人はそれぞれの行事などをきちんと務めることと思います。

でも、少なくともお寺の檀家になるために勉強が必要であったり、儀式を経たり、ということはないように思います。

最近よく耳にする「スピリチュアル(スピリチュアリズム)」なども、ある意味宗教心に近いかもしれません。

「スピリチュアル」はもしかすると日本人の宗教観にうまくマッチしているのかも・・・だから伝統宗教をあまり知らない若い人たちに受け入れられやすいのか、などと思ったりもします。

何しろオウム事件(もう18年くらいになりますか・・・)以降、社会には宗教アレルギーが広がって、公的社会、公教育界からは宗教が排除され、いろいろな場で宗教色を出さないことが暗黙のうちに求められるようになってしまった気がします。

人それぞれ、何を信じるかは自由・・・でも何かに対する畏敬の念を抱き、「宗教心」を持っていることは大切なように思います。

いろいろな神様、仏様を厳しく排除するのではなく、時には「良いとこ取り」をしたり、あれもいいし、これもいいんじゃない?的な柔軟さで受け容れていく・・・。

カトリックの洗礼は受けていても、日本人としてのDNAがあげる声を拒絶はしたくないな、と思った、大和路の旅でした。



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